産れは1953年。いまやラグビーで有名になった河内花園。しかしそこは間借りの生活だったため両親は子供4人を引き連れて、新しい借家に引っ越した。そこで高校を卒業するまで生活した。 覚えているのは4歳の時風疹に罹り幼稚園を休んだ時。外に出たくて玄関の引き戸から覗いていたら近所のおばちゃんが訪ねてきた際に母が娘の具合を説明していて病名を知った。
学童期は集団登校をしていたので毎朝10人前後で列を組んで登校する。帰りは自由だが遊ぶ時は年上の子も年下の子も入り混じって遊ぶ。 その頃は周辺には田畑が多く、用水路や「こえたんご」と呼んでいた人糞などを貯めておく井戸があった。蓮華畑で寝転んだり、田んぼでザリガニを捕まえたり、草でカエルを釣ったりして泥んこになっていた。いろんな危険があるはずだけど年長さんがちゃんとフォローして大した怪我もなく無事家に帰って来ていた。今考えると結構遠くまで行ったのだなあと感心する。そもそも学校まで25分位は歩いたからなあ。そのくらい当たり前よ。
小学校2年生の図工の時間、折り紙で船を折って画用紙に貼りその船に色紙を果物の形に切って乗せた絵を先生に褒められた。上に掲げてみんなに見えるようにしながら「上手ですね。こんな風に作るんですよ」と言ってもらえてとても嬉しかった。でも褒めてもらえた経験がないので真っ赤になってうつむいてしまった。
家は結構貧乏だったけど周りのいわゆるお金持ちの家庭に遊びに行ってもどこも毛嫌いするような人たちはいなくて、平等に扱ってくれた。 お向かいの叔母ちゃんもとっても優しい人で、「おやつを食べにおいで」と呼んでくれていた。その家庭には知的障害の男の子がいて、良く一緒に遊んでいた。他の子供たちみんなが障害を馬鹿にせず仲良くしてくれることを嬉しく感じていらっしゃたのだろう。
いよいよ中学生になった。田んぼの真ん中に新築された中学校の第一期生として入学した。 この3年間はあまり先生との交流がなく申し訳ないけど担任の先生の名前を思い出せない。ただ一人、1年生の時の担任で国語の先生がとても楽しい人で授業が面白かった。ひっそりとファンになっていたけれど、2年生の時、国語の教科書が誰かに隠されて失くしたことがあり、国語だったらあの先生にと相談に行ったら、関係ないでしょ?みたいな言い方をされてしまった。ショックでそれ以上言えず期待していた分3倍くらい落胆した。確かにもう担任から外れているからね。 口下手でブスな女の子が要領の悪い説明でイラついたかも。 卒業を間近にして高校受験の発表。志望した学校にはギリセーフで受かった。その時の担任の言葉「あんたは受からんと思ってたわ」 思っていても言わなくて良いよね。 「よかったね~これからも頑張りや~」と言ってほしかった。
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